2015年 某協会福山支部の皆様と「山陰研修旅行」行きでした(^.-)☆ <2/13> |
『神話のふるさと』と言われる出雲地方。
現にこの地では、神話とゆかりの深い場所が数多く存在します。しかし、出雲では神話を裏付けるような考古学的遺跡の発見がされておらず、出雲神話は作り話という見方が主流でした。
そうしたなか1984年、358本の銅剣が発見されました。
つづいて銅鐸と銅矛の発見、1996年には39個の銅鐸。
そして2000年、出雲大社境内から13世紀半ばの出雲大社本殿を支えたと考えられる巨大な三本柱が発見されました。
これらが意味するものは何でしょうか。ただのおとぎ話…と片づけられないこれらの発見は、まるで神々に与えられた謎ときであるかのようなロマンに満ちあふれています。
神話かそれとも実話か。
ここ古代出雲歴史博物館では、古代と現代を結ぶこれらの鍵を頼りに太古の謎に迫ります。
神々の国出雲の悠久の時を感じてください。
…と、こんな記載がありましたけど、う〜ん、「出雲神話」は実話なのかも分かりませんねぇ(^-^)//"
古代出雲歴史博物館での予備知識習得後は、いよいよ出雲大社への参拝となりました(^.-)☆
バスから降りますとガイドsanのご案内に従ってお詣りです。
過去に何度か参拝しています出雲大社ではありますけど、こぅしてガイドsanのご案内が有るのと無いのとでは随分違いますネ。
チャンとしたガイドを頂き、それを基に改めて参拝ですから嬉しいですねぇ〜
◆出雲大社
出雲大社(いづもおおやしろ、いづもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。
★概要
古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。 正式名称は「いづもおおやしろ」であるが、一般には主に「いづもたいしゃ」と読まれる。
二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代 社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。
現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年(平成14年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分 特級を拝受している。
また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。
現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。
2014年9月7日付で、千家国麿が権宮司に就任した。
☆千家国麿
千家 国麿(せんげ くにまろ 1973年(昭和48年)9月2日 - )は、日本の出雲大社の権宮司である。
・経歴
1973年(昭和48年)9月2日、島根県出雲市出身。父は第84代出雲国造で出雲大社宮司の千家尊祐で、弟に誠比古、徳比古らがいる。
島根県立大社高等学校、1996年(平成8年)3月國學院大學文学部神道学科卒業(104期)。
大学卒業後の1996年(平成8年)4月から乃木神社、2001年(平成13年)4月から石清水八幡宮、2005年(平成17年)3月から出雲大社で神職を務めている。同年11月から、御遷宮準備室長兼出雲大社御遷宮奉賛会事務局長。その後禰宜(ねぎ)・祭務部長に就任。
2014年(平成26年)5月27日午前に、高円宮憲仁親王の第二女子・典子女王との婚約が宮内庁の西ヶ廣渉宮務主管から発表され、同日午後、宮内庁第一会議室で典子女王(当時)とともに記者会見を行った。
同年10月5日に出雲大社で結婚式を挙げた。
2014年9月7日付で、出雲大社の権宮司に就任した。
千家家は代々出雲国造を務めており、「古事記」、「日本書紀」によると、天照大神、天穂日命、建比良鳥命の家系であると伝えられている。趣味はバードウォッチングとカメラである。
義母の高円宮妃は国際環境NGO「バードライフ・インターナショナル」名誉総裁であり、実父の千家尊祐も同団体日本法人の特別顧問を務めていることからバードウォッチングを通しても両家の交流があった。
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