| 2025/11/02(日) 2025水呑学区ふれあい文化祭史跡巡り <4/4> |
■2025年12月01日20:13
2025水呑学区ふれあい文化祭≠ヘ、11/2(日)の「史跡めぐり」に参加でした(07)
水呑八幡神社からは、熊ヶ峰への登山道を六方学園方向に少し上がって行きますと、右手の山側に葛城神社≠ェ存在です。
ここには、こんな説明板の設置が…
◆葛城神社
熊ヶ峰と並ぶ葛城山の九合目あたりに安元元年(1175)頃から在りました。葛城神社の祭神は素戔鳴(すさのお)の子一言主神で本社は奈良県葛城一言神社である。官簿写しには、所在地を簑島砂原として、社殿梁行一間、桁行一間半、境内九坪、氏子二戸とあり、1867年ごろ佐々木一右衛門なる人、今の八幡神社の南山上岩亀に移し、明治四十四年(1911)夏再び葛城山九合目に神殿六間二間・参拝所三間半・控所六間二間を新築移転する。
昭和30年(1955)に、現在地へ移されました。
住職は年老いた為、故郷の矢掛妙泉寺に帰り、現在地には葛城大尊天として祀られている。(大尊天とは仏の神である)
由来記によれば、安元元年(1175)小松内大臣重盛公、厳島神社参詣の途中、この山に登り当社と熊野神社を祀ったとも伝えられています。(水呑町史より)
◆山神(やまがみ)
葛城山の登山道八幡神社より70米ぐらい登った右手七間奥に高さ二尺位の文字の無い石碑がある。土地の人は此れを山神と呼んでいます。
この石碑の由来は元文元年(1736)3月25日の夜、太鼓勘兵衛という人夢に髪は禿にして、一足の鬼形来て何とて我を不祭ぞ、早く可祭勧請をば、重顕寺日明に頼めと呼で山奥へ走行。
此の時日明上人白衣に紫の袈裟をかけて居給たまへると見て夢覚侍り傍面日明を導師として山田山に勧請す。
其後山の役人小林如七と云者、公用の薪を切らせるが、既に此社の木も切らんとしける時、久太郎云う者、是は山神の神木にて候と申しければ、きらざりけるなり。(水呑町史より)
◆蘇命水(そめいすい)
重盛公、熊ヶ峰山上に向かう途中、6・7合目のところで主従共に息も絶えるかと思われるほど疲労のところに白髪の翁が現れて、傍らにあった岩を取り除いたら、たちまち冷水が湧き出す。
公、これを飲んだところ間もなく元気を回復したので、重盛公がこの水を蘇命水と名付けたと伝えられる。
時に翁は何者であるかと、公が尋ねたところ、吾はこの峯の頂上に祭られる(かつらぎ大権現)の待者であると。(葛城山縁起より)
-- 水呑学区まちづくり推進委員会 水呑歴史民俗資料保存会 令和2年2月設置 --
山神∞蘇命水≠ノは向かわずに、葛城神社≠ゥらは重顕寺≠ノ向かいます。
◆重顕寺
応長元年(1311)創建、真言宗。日像と法論の末、日蓮宗に改宗する。備後では最初の日蓮宗のお寺。

■2025年12月02日23:40
2025水呑学区ふれあい文化祭≠ヘ、11/2(日)の「史跡めぐり」に参加でした(08)
重顕寺°ォ内からは、暫し我が町を眺望です。ここからの芦田川大橋〜河口堰方向の眺望もまたイィものであります(^.-)☆
重顕寺≠フ下には善住寺≠ェありますけど、ここは立ち寄りませんでスルーでした。GONsanは皆さんの後方を歩いておりましたので、善住寺≠フ説明がありましたのか否かは分かりません。ただ、史跡めぐりの資料には、善住寺《anの記載がありましたから…
◆善住寺
永正9年(1512)に妙顕寺第11世重兼上人により創建される。
…と、こんな善住寺《anですけど、とにかく立ち寄りもなくスルーでありました(^-^)//"

■2025年12月03日16:02
2025水呑学区ふれあい文化祭≠ヘ、11/2(日)の「史跡めぐり」に参加でした(09)
重顕寺≠ヨの参道を下って来まして、いぼ神さん≠ヨ立ち寄りです。
◆いぼ神さん
40センチ位の自然石を積み重ねたもので、線香の灰を疣(いぼ)に付けると、疣がなくなると云われている。今でも賽銭が上がっています。
画像の通り自然石が設置され、昔はこの自然石の前に灰皿のようなモノが置かれ、線香でお参りしていましたとか。そして、灰皿の線香の灰を疣に付けますと、キレイに消えましたとか(^-^)
今でもお賽銭が置かれていますとの事ですから、お参りされます方がおられるようであります。この近くには、ハタ川≠ェ存在です。
◆ハタ川
七泉の一つ、川と云うが流れる川とは違い、水がわき出る所を川と呼ぶこともある。善住寺の下、疣(いぼ)神さんの近く。
何度も眼にしていますから、ハタ川≠フ現地確認はパスのGONsan。いぼ神さん≠ノ続いて、次は松室神社≠ノ向かいます。
松室神社≠ナは、境内には上がらず石段下の鳥居から説明をされます本日のガイドsan。
◆松室神社
元禄4年(1691)の創建、祭神は大山昨神(おおやまくいのかみ)。妙顕寺第22世日潤上人の書かれたお曼荼羅がご神体。
松尾神社とも。
◆松室川
七泉の一つ。松室神社の北にある。現在も生活用水として使用されている。
松室神社の鳥居付近には、松室神社・松室川についてのこんな案内板が…
◆歩いてふれよう水呑の歴史や風土「ふるさと水呑」案内
-- 松尾(松室)神社 土井郷・浜郷 --
町内にある同名神社三社のうちの一社である当松尾神社は、別名松室神社とも呼ばれている。
その謂われは地名から名付けられたものであり、元禄13年(1700)の検地帳には「西中村谷」の中に「松室」の地名が見える。創建は元禄4年(1691)8月で、文政11年(1828)に再建、他社と同じく明治8年(1875)に神斉となっている。神斉となるめまでは妙顕寺時代々の老師が之を管理していた。
社殿は創建当時は梁行2間、桁行3間、境内46坪で、当時の妙顕寺住職22世日潤筆法華十界の本尊を納めて御神体としている。
再建後は社殿梁行1間2尺、桁行1間、拝殿梁行2間、桁行3間、境内は60坪に拡張された。
安政6年8月に常夜灯を献じ、大正4年5月に鳥居及び玉垣を新築している。
昭和15年(1940)の水呑尋常高等小学校の調査によれば、祭神は大山作命、日潤上人ご本尊及び同上人真筆曼荼羅を納め、御神体は木札とされ、祭日は(旧)8月11日となっており、祭礼行事は氏子総代5人(5頭)が交代して家にて行い、1年毎に御輿の渡御があった。
-- 松室川(水呑の七泉) --
場所は水呑町土井1649(財務省)記録にあり、清涼豊富な水は下流の小学校にも簡易水道として引かれていた。
形態は後方竹藪の窪地に約1.5坪の堀川で、上部の汲出し口を残し葛石で覆われている。
ポンプ二基を据え付け利用者は頻繁で、全般によく整備されている。松室の地に因み松室川と名付けられ、元禄地検帳には「さこ田谷」に「松室川尻」との地名も見える。
参考資料:『水呑町史』『沼隈郡水呑尋常高等小学校史跡調査書』『備後国沼隈郡水呑村御検地水帳』『郷土の史跡巡り・水呑七泉』
水呑学区まちづくり推進委員会 水呑歴史民俗資料保存会 令和5年(2023)2月吉日 設置
松尾(松室)神社∞松室川≠フ説明が終わりますと、今回の史跡巡り≠ヘ凡てオシマイです。後は、水呑交流館に戻るのみ。
参加者の皆様、お世話して頂きました水呑歴史民俗資料保存会≠フ皆様、大変お疲れ様でした。また、来年も宜敷お願い致しますです(^-^)//"

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